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まだ終わっていませんが…

 サッカーワールドカップが開催されています。残念ながら我らがザック・

ジャパンはグループリーグ突破叶わず、残念な結果となってしまいました。なかには日本の実力の無さを嘆いたり、決定力不足を指弾したり、悪し様に言う論評がないわけじゃないけれど、私は、是非このチーム全員が胸を張って帰国して欲しいと思います。このチームがどれほど私たちに夢を描かせてくれたことでしょう。精一杯やったことを疑う人なんていないでしょ。そりゃぁミスはあるし、戦術上の問題や個々人のレベルの問題やら、挙げていけばキリがない。だけど、それは当たり前の話だと思うんですよね。だって、人間がやってるんだから…。

 戦前、本田圭佑選手が優勝の可能性にまで言及したでしょ。戦い終わって、「なんだ口先だけじゃないか」と言うのは簡単だけど、逆にその高みまで見据えて志高くチームを引っ張っていった心意気こそ讃えるべきだと私は思う。決して彼は大言壮語したわけじゃなくて、本当に本気でその可能性を信じていたはずだから…。

 日本サポーターのマナーも話題になりましたね。グループリーグは負けてしまったけれど、このチームも現地サポーターも一緒になって、日本というチームの存在をしっかりブラジルに残してきたのだと思います。イングランドが姿を消し、イタリアが敗退し、スペインすら残れなかった過酷な戦い。この戦いの場に果敢に挑んでいったチームジャパンを、私は大いなる拍手で迎えたい。そして、オリンピックの5倍以上もの人々が見るこの世界最大のスポーツの祭典に、再びブルーのユニホームが躍動する姿を見たいと思います。そのためにも、私たちはチームの帰国を温かく迎えたいと思うのです。

 

 


我が家の庭も梅雨入りしました

 

 実家に帰ってきて、早くも半年ほど経ちました。持ち帰った大量のダンボールがまだ半数以上開梱していない状況を、徐々に着実に作業が進んでいるとみるか、あるいは弟夫婦曰く「遅々として進まず」とみるかは見解の分かれるところでありますが、どうにか此処が自分の住み家といった実感だけは感じられてきました。

 実家は古い作りの木造の家なので、冬の寒さには参りました。暖房を付けた部屋から一歩出ると、そこは家の外と変わらぬほどの寒さで、家の中とはとても思えませんでした。父はよくこんな寒さの中で暮らしていたものだと思います。

 それだけに、春の訪れはとても嬉しいことでした。一番感激したのは、クロッカスの花をみたときでした。この花は、私が小学生の頃、学校から球根をもらって植えたのですが、初めて植えた球根が、春になって庭に紫色の花を咲かせたときの感動を思い出しました。あれから○拾年、今だに春になると可憐な花を咲かせていたのを見たとき、私が初めて球根を植えた頃のことがよみがえってきて、実家に戻ってきたことを改めて実感しました。

 しかし、良い事ばかりではなくて、余計な仕事も増えました。その筆頭が草むしり。今までマンション暮らしだったので、初春から初夏にかけての雑草の成長の速さには参りました。猫の額ほどのささやかな庭も、いざ草むしりをはじめると、還暦過ぎの老人(急に都合よく翁になる) にはなかなか応える重労働なのであります。

 庭には両親が植えた草木の他に、私や弟が植えた「蝶」の食草、あるいはタラの木も植えられています。このタラの木は、弟がタラの芽の天ぷら用に山から移植したもので、すでに根元は丸太のように太いものもあって、毎年20個ほどの山菜の女王を天ぷらで食べることができます。

この鬼の棍棒のようなタラの木のトゲ! アンタッチャブル!

 

それにしても、こりゃ過剰防衛だろ!

 

 

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 名前のわからん百合なんかも咲いたりして…

 

 

 

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近づくと違った風景が…

 

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梅雨の花、ムラサキツユクサとか…

 

 

 

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雨が降ったら降ったで、なんでもない草の葉の上にも、面白い世界があります。

 

 

 

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ヤマトシジミの食草、カタバミも花を咲かせました。

 

 

 

 

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今年は思いがけぬアルバイト「草むしり」のお駄賃として、どんな花が咲くのか楽しませてもらおうと思っています。



 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ミステリアスな自宅

 自宅に到着すると、不思議なことに真向かいのカーテンが窓の中程まで開いていた。なぜ不思議かと言えば、土曜日に弟夫婦が留守中に訪ねて、庭の草むしり等をやってくれて、そのまま忘れたのだろうと、昨日閉めたばかりなのだ。

 また弟夫婦が来て、カーテンを締め忘れたのだろうか。私は訝しい思いのまま自宅に入り、やがて異変に気付いた。それまで台所の流し台の上にあったカツオの出汁粉末の袋が床下に落ち、何者かに齧られた痕があった。出汁の粉末は床に散乱し、今朝こんなことにはなっていなかった。よしんば弟夫婦が留守中に訪ねたとしても、こんな惨状を平気で見逃すはずもなかった。

 異変はまだあった。以前父の居間だった部屋には、刺身のパックに使われていた発泡スチロールの容器が細かく齧られ、散乱していたし、父の遺影の写真はひっくり返って床に落ちていた。明らかに何者かが侵入してやらかした仕業に違いなかった。

 私は少々の不気味さと、少々の憤りを覚えながら、その犯人を探しにかかった。それは恐らく、いや間違いなく「猫」の仕業だった。私の自宅の周りには猫が多く、鳴き声や屋根筋をわたる時の足音などが頻繁に聞こえる。しかし、何処にいるともわからない猫を家の隅々まで探すのは、なかなか勇気もいるのである。外で見ていればたわいのない子猫一匹でも、家の中から突然現れる猫は、なかなか存在感のある生き物なのだ。

 私は今は亡き母の部屋を覗いた瞬間、母の使っていたベッドの下で微かに動いたまだら模様の猫の後肢を見逃さなかった。「いた!」

 早速弟夫婦に連絡し、弟がやってきた。もちろん平身低頭。早速ベットの下をライトで照らし、探索開始。しかし見当たらない。外への扉は開け放していたから、気づかない間に逃亡してくれたかも…と思っていたところ。ベッドの下に小さな物入れがあって、そこが怪しいということになった。奥が深く、どうも猫らしきものが潜んでいるかも知れないと弟。しばらく脱出路を見せながらほっといてみようということになった。案の定、しばらくしたらブチ模様の猫が一匹御退出。やれやれと、弟と後始末をしていたら、弟が「もう一匹いるかもしれない」

 物入れの扉を閉めておいたら、何者かがカリカリと扉を開けたがっている気配。またしても持久戦で、外に御退出いただくのを待っていたが、なかなかその気配も無し。業を煮やした弟が、その近辺に山積していた私の引越し時のダンボール等をどかし、物入れの最深部をバンバンと叩いたところ、子猫が「ミャー!」と捨て台詞を残して去っていった。

 そんな訳で、今日は帰宅後散々のことになってしまいました。私の留守中に二匹もの猫が我が物顔で闊歩していたとは、おぞましいかぎりであります。もともと私は犬や猫は大好きで、若い頃は飼っていた猫と一緒に寝ていたくらいです。しかし、面識のない猫は困ります。今日は肝休日明けの晩酌を楽しもうと思っていたのですが、それどころではなくなりました。ニャロメ!


熊本の旅

 熊本は特別想い出深い街です。今回も楽しい想い出の詰まった旅となりました。

前回訪れた時は快晴で、パワースポットとしての重さを実感した熊本城見物も楽しめました。

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 あいにく今回はあまり天候が良くないということでしたが、羽田から向かった機上から、南アルプスの山々がくっきりみえました。まぁ、雲の上ですからねぇ……

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熊本の夜は、下通り商店街の熱い皆さんとフィーバー! 明け方近くまで芳醇な香りの飲み物を胃に流し続けたため、10時過ぎまで前後不覚状態。広島から来られた桃ファンの電話で目覚めたほどでした。それでも二日酔いなど全くなし。馬肉がよかったのかな?

思いがけず訪れた一日の休日を大切にしようと、熊本駅で荷物をコインロッカーに入れてから、タクシーに乗りました。

「海へ…」

連れて行かれたのが熊本港。ぶらぶらしていたら、島原行きのフェリーが有るのを発見。雲は低く、いつ降ってきてもおかしくない怪しい天気だったのですが、つい飛び乗ってしまいました。30分で島原までいってしまうのですから、今度はゆっくり島原観光しようと思いました。

走り出すと、すぐに現れた一羽のカモメ!

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と、すぐにもう一羽!

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 と思ったら、大群出現!

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 真ん中の子は乗船客の投げるビスケット?をナイスキャッチ!

船上の人もカモメも大騒ぎ(笑)

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 しばしカモメ君たちの写真に夢中になって

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 中にはこんな不思議な (^O^)  写真も撮れたりして

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じっくりみたらカモメ君も結構可愛かった。

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島原でそぼ降っていた雨も、熊本港に向かう船上では陽が差すほどに回復し、何ともちぐはぐな旅でありました。輝く波の向こうには普賢岳が高く聳えて見送ってくれました。

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熊本でお会いした皆様、色々とありがとうございました。


うかつにも…


 私は、食べ物に関して、比較的好き嫌いが無いほうだと思っています。そして、それはなかなか幸せなことだと思っています。より多くのものに美味しさを感じられるのは、それを感じられない人よりは幸せだと思いますし、美味しいものを食べているときは、それを感じられる今の健康や体調まで感謝するほどです。美味しいものを美味しいと感じられなかったら、きっとその人は体調や精神的な障碍を抱えているのでしょうから……。
 とはいえ、どうしても箸がすすまない苦手の食べ物も幾つかあります。それらを大別すると、そのひとつは実際に食べてみて好印象を持たなかったもの。もうひとつは、まだ食べていないけれど、何となく自分の中で嫌悪感を作り上げてしまったものだと思います。
 たとえば人参。豚汁やカレーに入っている人参を、私はある程度普通に(ってどういう意味じゃ?) 食べられます。しかし、食べ終わる頃に人参が残っていると、それは最後まで手がつけられず、というよりも積極的に排除され、器には数かけらの人参が残されたままとなります。途中では他の食材とともに食べているのですから、私の人参嫌いは極々幼児的なわがまま以外の何者でもないのですが、どうしても私の心の奥底に人参にたいする消極的な気持ちがあって、それがつまらない行動に結びついているようです。
 小学校低学年の頃、祖母は私に人参を生で食べさせていました。台所に行くと大好きなオバアちゃん(私は御婆ちゃん子でした) が料理の支度をしていて、用もなく出入りする私に洗ったばかりの人参を真っ二つにして、その先端部分を差し出しました。
「美味しいから食べてごらん」
子供とは不思議な生き物で、大好きな人が美味しいと言えば美味しく感じるし、不味いとか嫌いと言えば、それが嫌いになったりする純真さをもっています。純真だった私は(今も!(笑)) その人参にかぶりつき、美味しいと思いながら食べきってしまいました。祖母は人参に限らず、多くの食材を私に与えました。イナゴの佃煮、土筆(ツクシ)の煮物、蓬(ヨモギ)餅、蜂の子等々。今でこそイナゴや蜂の子はゲテモノの類になるのでしょうが、当時の私にとっては御馳走でありました。蜂の巣から取り出した生きたままの蜂の子を醤油につけて食べると、普段めったに食べられない貴重なものを食べられた幸せが私を包みました。(今の私は、蜂の子やイナゴを好んで食べる人間ではありません。念のため!)
 祖母の家は町田市にありました。今や大発展を遂げた町田市も、当時は省線(現JR) に蒸気機関車が走っていましたし、少し郊外に歩いていけば、蓬や土筆は取り放題でした。まだ明けやらぬ暗い中でふと目覚め、吊り下げられた蚊帳をぼんやりみていると、遠くで蒸気機関車の音が聞こえ、「もう走りだしたのだなぁ」などと虚ろに思いながらまた寝入ってしまったあの頃、何もなかった時代のはずなのに、私のまわりは色々なものに満ち溢れていました。
 ある時、いつものように祖母から人参の欠片を貰い、ほおばっていたら、突然猛烈な違和感を覚えました。人参独特の苦味、エグミが鼻腔内に充満し、食べ続けることが出来なくなりました。それまで全く感じられなかった匂いと味。爾来人参は受け入れがたい食物へと豹変したのでした。大好きな物でも延々と食べ続ければやがて鼻につきます。沢山の食材を私に教えてくれた偉大な祖母は、しかし人参だけは孫に与えすぎたようでした。
 
 先日沖縄を訪れました。沖縄の郷土料理をネットでみていると、どうも気が進まないものばかりで、強いて挙げれば大好きな麺類くらいと思っていました。ミミガー………ンっ、豚の耳。御遠慮申し上げる! トンソク………豚足、なんだ、豚の足そのままじゃない。絶対無理! といった調子で、沖縄への旅立ちは、殊食べ物については、実は少々憂鬱でありました。桃子プロの応援で随分いろいろなところに行きましたが、その御当地名物に魅力を感じなかったのは今回の沖縄が初めてのことでした。
 沖縄の夜、恒例の桃ファンとの宴が設けられました。私は取り立てて欲しいものもなく、皆さんのオーダーしたものに便乗して肴にしていました。何度目かのオーダーを頼もうというときになって、皆さんの話題が「にんじんしりしり」という料理で持ち切りになりました。私はその名前を初めて聞いたのですが、皆さんの話によれば、藍ちゃん(宮里藍プロ)推奨の食べ物のようでした。私は、前述のようにすすんで食べようとは思わない食材である人参がメインの料理にすぐ反応して、思わず
「私は要らない」
といってしまいました。すぐさま私の人参嫌いがバレて、たちどころに「にんじんしりしり」なる料理が運ばれてきました。わたしは、これも後学のためと思い、小皿にとってみました。人参は細く削られて沢山のタマゴに囲まれていました。食べた途端、卵の香ばしい風味が口いっぱいに拡がり、それが人参の柔らかい甘さと溶け合って、とても美味しく感じられました。色こそ人参の赤味が勝り、明らかに人参料理ではありましたが、その味はどちらかというと卵料理といった感じもする、本当に美味しい料理でした。お代わりすらしてしまった「にんじんしりしり」は、私が人参に対して抱いていたイメージを一新させる料理でした。

 この夜の集いを設けたのは、沖縄の郷土料理の店で、この地方の唄がライブで聞けるところでした。私はさきほど書いたとおり、どうも沖縄料理に食指が湧かなかったので、この演奏は遠路沖縄にやってきたことを実感させる、とても異国情緒に溢れたものでした。私は誰かが豚足やミミガーを注文しやしないかと内心は戦々恐々、しかしそんなことはおくびにも出さず、なに食わぬ顔で皆さんとの会話を楽しんでいました。
 最初にお通しが運ばれました。その皿は三つに区分けされていて、一つはモズク、一つは沖縄地方の豆腐でしょうか、一つはキャベツを細切りにしたような淡い緑色のものにピーナッツ?風味のタレが掛かったものでした。私はそのどれもが美味しかったのですが、ことに薄緑色をしたものは食感が独特で、タレとも絶妙に絡んで、実に美味しいものでした。私はお代わりをしようかとも思ったのですが、来て早々お通しのお代わりも無いだろうと思い直し、ふと横にいらしたOさんの御主人に聞いてみました。
「この緑色の、凄く美味しいけど、なんですかねぇ。クラゲの仲間かな?」
「さあ、なんでしょうねぇ」
 その間にも皆さんの頼まれた沖縄料理が次々と運ばれ、そしてそのどれもが美味しく、当初敬遠していた沖縄料理は、桃ファンの皆さんとの楽しい会話とともに、とても楽しく美味しい思い出として、私の中に吸収されて行きました。幸い、最も警戒していたミミガーや豚足を注文するような人はいなくて、私は安堵のうちに沖縄の夜を堪能することが出来ました。
 翌日、私はOさん御夫妻のレンタカーに便乗させていただいて、ゴルフ場に向かいました。運転を終え、ギャラバスに向かう途中、Oさんの御主人がなにやらニヤニヤして、私の顔を見ながら言いました。
「昨日のクラゲのようなやつ、何だか判りました?」
「いえ」と私。
「あれがミミガーらしいですよ」

 御主人の嬉しそうな顔。……ミミガーって茶褐色じゃないのかよ!
迂闊にも食べてしまった忸怩たる思いと、それにも増して今更打ち消しようもない嬉々として平らげた美味しかった思い。ギャラバスが発着する港からの潮風に吹かれながら、言葉を失った私はただ黙々とバスに向かったのでありました。

 実際に食べてみて好印象を持たなかったもの。あるいは、まだ食べてもいないのに、何となく自分の中で嫌悪感を作り上げてしまったもの。これらの嫌いな食材に、沖縄で私はどちらも遭遇し、しかもその先入観を見事に払拭する出来事と出会いました。今回の沖縄行は、もっとも魅力を感じなかった食事に関して、実に多くの印象の残った旅となりました。沖縄の料理はその全てが個性に溢れたとても美味しいものばかりでした。余談ではありますが、最終日観戦中のコース内で売られていたハンバーガー(名前を全く覚えていないのですが)も、御当地の肉と卵焼きをサンドしたものだったのですが、とても美味しいものでした。沖縄の卵が美味しいのか、あるいは、その味付けがおいしいのか、私には判断出来かねますが、「にんじんしりしり」の例といい、沖縄の卵料理の美味しさは特に印象深く感じられました。
 
 あれから既にひと月ほど過ぎて、随分間の抜けたご挨拶ではありますが、現地でお世話になった皆様、有難う御座いました。ことにO御夫妻には一方ならぬ御厄介になりました。思いがけぬ首里城観光共々、本当に有難う御座いました。ところで御主人、本当にミミガー知らなかったの?

 いよいよ今週から桃子プロの第二の故郷神戸で試合が始まります。来週には生地熊本での試合も控えています。沖縄以来三戦連続の不本意な成績ではありますが、私はあまり心配していません。それよりも、桃子プロの「持っているもの」を信じています。年度切り替えのこの時期はなかなかネットの応援すらままならない超繁忙期なのですが、熊本だけは観戦に行こうと決め、年明け早々予約の手配をしました。何が何でも…の思いで行きます。きっと桃子プロも何が何でも…の気合で、臨んでくれるものと思います。それに、沖縄に行く前の気持ちとは違って、熊本には美味しいものが沢山あるのを知ってますから……。
 桃子プロが日本に戻ってきてくれたことの喜びを、今年は精一杯堪能したいと思っています。




寒! OKINAWA!

 ガジュマルの大木やソテツが南国沖縄を思わせる琉球ゴルフ倶楽部で行われたダイキンオーキッドレディースゴルフトーナメント、観戦してきました。上田桃子プロの第2ラウンドの5ホール目ほどで追いついて、その後日曜日のホールアウトまでの戦いぶりをじっくり見ることができました。天気予報で雨ということは覚悟していたのですが、雨というより暴風雨、横殴りの強風が冷たい雨を運び、南国あったかほんわかゴルフとは程遠い、散々な初日の観戦でした。二日目も、朝晴れ間も見えたものの不安定な天候で、時折強い雨も降り、晴れ間が覗いたりといった、傘の出し入れの忙しい観戦でした。
 さて、桃子プロのプレーですが、以下は私の勝手な印象ですので、全く見当外れの可能性が多々あり得ることを念頭に、眉に唾を付けつつお読み頂けたらと存じます。
 まず第一に感じたのは、プレー振りといいますか、マネージメントといいますか、ゴルフが変わってきたという印象を受けました。例えば、今まではウエッジを使ったであろう場面で、グリーン脇からパターを使ったり、今までならウッドを持ったであろうロングホールのセカンドでアイアンを持ったり……。
 圧巻は決勝ラウンドの11番ロングホールセカンドでのドライバーでした(遠くから双眼鏡での確認なので“恐らく”という注釈つきですが) 、このホール、同伴の比嘉プロからティーショットでかなり離されていたのですが、件のドライバーと思しきものから放たれたセカンドショットは、とても低い弾道でグリーンを目指し、比嘉プロよりもピンに近いグリーン手前の花道に止まりました。
近くのギャラリーが「低いなぁ」と呟いていましたが、私はドライバーこその弾道だと思いました。結局比嘉プロも桃子プロもその位置から絶妙のアプローチで寄せ、バーディーとしました。このホールは、そしてこのバーディーは、今回の観戦でもっとも心に残るものでした。身震いすら覚える、感動のホールでした。しかし、このホールは、桃子プロが常々言っている“魅せるプレー”という意味ではないような気がしました。そんなことは関係なく、勝ちに行った一心でのセカンドであり、バーディーであったように感じたのです。先に書いたパターやアイアンのことも含めて、私が今回の観戦で最も強く感じたことは、「桃子プロ、本気で勝ちに来た」ということです。じゃ、今までは…と言われるととても困るのですが、そのようなこともあって、最初に書いた「ゴルフが変わった」という印象を受けた訳です。
 残念ながら次の12番ホールでボギーがきました。これは痛恨でした。11番でメラメラと燃え盛った闘志に全身水を浴びせるようなボギーでした。13番のティーグラウンドでじっと一点を見つめ、険しい表情で立ちつくす桃子プロ。あるいはその眼には何も映っていなかったのかも知れません。私にとって、この11番12番ホールの出来事は、まるで今回の観戦のエッセンスのようなものでした。
 以上、私の感じた勝手な印象でありますので、笑って読み飛ばして頂ければと存じます。ただ、桃子プロの今期日本ツアーにかける意気込みだけはひしひしと伝わってきましたし、これだけは間違いないと確信しています。その思いを込めたプレーが見られただけでも、沖縄まで足を運んだ甲斐があったというものです。




いよいよツアー開幕!

まもなく……春ですねぇ。ソチ・オリンピックも何だかあっという間に終わってしまいました。感動の数々、夢中になっていると時間の経つのが早いこと早いこと。もうそこの角から春がこちらを窺って覗いています。「もう出てっていいかなぁ。もうちょっと待とうかなぁ」なーんてね。
 そして、いよいよ待ちに待った日本女子プロゴルフトーナメントが始まります。3月7日の沖縄ダイキンオーキッドを皮切りに、11月末の宮崎リコーカップまで、9カ月間37試合の長い長い戦いの始まりです。
 私が応援する上田桃子プロも、今年は日本ツアーに復帰しましたから、その勇姿を国内で身近に応援する機会も増えます。どの試合を見に行こうか、その予定を考えるだけでワクワクしてきます。
 久しぶりの国内ツアー復帰ですから、桃子プロ本人も当然気構えや目標など様々な思いを込めて参戦されると思います。是非その思いが今シーズンを通して、あるいは最終戦を終える頃に納得できる結果を残せたらと思っています。
 そんな本人の思いとは無関係に、私も一ファンとして、今シーズンへの思いを勝手に抱いています。それは、ぜひ賞金女王争いに加わってほしいという思いです。強豪ひしめき合うトーナメントは、一勝することすら本当に大変なことです。まして賞金女王争いとなれば、尚更のことです。口で言うほど簡単でないことは、十分承知しています。どうしてもファンというものは高望みをしたくなるものでもあります。しかし、私は高望みとは思っていません。何故なら、彼女はその賞金女王という称号を現実に勝ち取ったことがあるのですから…。
 あれから6年、伊達に歯を食いしばってきたわけではありません。数字的な結果が出なかったからといって、その期間が「無」であるはずもありません。それは、いくらお金を払っても出来ない貴重な体験を積んできた6年間だと思います。賞金女王を獲って以来初めて本格参戦の国内ツアー。私の思いは、決して高望みとは思えないのですが……。怪我と体調管理だけは十分に留意されて、長丁場ですが、持前の前向きの強い気持ちで乗り切ってほしいと思っています。
 そんな訳で、開幕の高揚感を抑えられず、沖縄に行ってきます。こんな調子で観戦を続けると何試合行くか分からないので、スケジュール表とにらめっこしながら、どの試合を我慢するか思案中。海外の方がすんなり諦めがついたので、只今悩ましい私であります




違いのわからない男

 早いものでもう二月ですね。
 今年のお正月は、例年のように寝正月という訳にはいかず、引っ越してきたダンボールの山と格闘する日々でした。なんとか自分の部屋は日常生活が出来るようになりましたが、相変わらず他の部屋は全てダンボールが占拠し続けていて、その中身があるべきところに落ち着くのは、どうやら春の便りを聞く頃になりそうです。
 それでも、やっと自分の居場所だけはどうにか確保し、ダンボールとの格闘の合間、徒然にネットなどを彷徨っていると、昔の懐かしい唄なども見つけ、暫し聞き惚れてしまっている自分を発見したりの毎日です。片付けの合間にネットを見ているのか、ネットを見る合間に片付けをしているのか…、これではなかなか片付けが進まないのも無理からぬことであります。

 昨年は私の好きな歌手の方が二人も亡くなられました。島倉千代子さん。藤圭子さん。どちらの方もかけがえのない歌手でした。かけがえのない歌手とは、その人でなければ歌えない唄を持っているという、私なりの意味合いでありますが、逆に言えば、大歌手と言われる人は、皆その人なりの歌声をもっているとも言えます。そんな大歌手といえる方々の歌声を追って、ネットを彷徨い歩いていると、時間の経つのを忘れてしまいます。とくに何処かに出向いたわけでもなく、これといった出来事もない昨今、ブログもほったらかしたままでしたが、つれづれに忘れ難い歌声を拾い集めてみました。

 最初は藤圭子さん。私が初めて生の藤圭子さんを見たのは渋谷公会堂でした。その頃、私は全く歌謡曲やら芸能界に興味がなくて、年に一度紅白歌合戦を家族で過ごすついでに聴く程度でした。だから、友人が招待券を手に入れて歌謡曲番組の収録を見にいこうと誘われた時も、全く高揚感はなく、良い暇つぶしが出来たといった程度でした。もちろん藤圭子さんの名前は知っていました。そのころの彼女はデビューしてしばらくした頃だったと思うのですが、おそらく飛ぶ鳥を落とす勢いの時期だったのではないかと思います。なぜこのような曖昧な言い方になるかというと、私は全く歌謡界に興味がなく、藤圭子なる歌手がどれほどのスターなのかすら、ほとんど判らなかったからです。
 ステージには多くの歌手が登場して歌をうたっていきました。悲しいかな、そこに登場した方のお名前を全く覚えていません。誘ってくれた友人が「藤圭子、藤圭子」というものだから、藤圭子さんだけは覚えているのですが、このように、私の歌謡曲にたいする認識は人並み外れて希薄なものでした。
 それだけに、逆に藤圭子さんのステージだけは相当鮮明に覚えています。彼女が登場した途端、客席からは大歓声とともに彼女の名を呼ぶ声が幾重にもなって聞こえました。それだけで、藤圭子という歌手が今大スターなのだということを実感しました。しかし、もっとも私が印象深かったのは、その風貌とその歌声のギャップでした。清楚な白い衣装に身を包んだ、まだ仕草も顔もあどけなさが残ったようなとても美しい女性が、一旦唄いだしたその声は、外見からは想像できないようなドスの効いた歌声で、思わず彼女のそれまでの生い立ちまで思い巡らさずにはいられないような、驚きの対比でした。おそらく彼女はその頃二十前後だと思います。情けないことに、私がいつごろ見に行ったのかも覚えていません。
 藤圭子さんはまさに波乱万丈の人生でしたが、彼女でなければ描けない唄の世界を思うと、惜しい人を無くした感がつのります。合掌。

藤圭子さんが「みだれ髪」を唄っていました。唄い終わってそそくさと恥ずかしそうに退場する初々しい姿が残されています。


藤圭子  みだれ髪



美空ひばりさん・森進一さん、歌のうまい方の持ち歌を歌っても、堂々と藤圭子の世界を唄いきっています。今度は森進一さんの曲です。

藤圭子  命かれても




 私は若い頃、クラシックとジャズだけが音楽だ…みたいなことを思っていました。今考えると空恐ろしい偏屈な若造で、さぞや嫌な人間であったろうと恥ずかしさに身悶えするほどであります。ですから、演歌、歌謡曲…そんなものは誰でも練習すれば歌えるようになるだろうと思っていました。こうして書いているだけでいやな汗が滲んでくる思いです。つまり、それほどに聴く耳を持っていなかった訳です。誰が上手いなんてことも判りませんでしたし、歌手の歌は皆同じに聴こえました。
その後勤めるようになり、社内の宴会などでカラオケなるものが登場してきました。当時のカラオケは8トラックのカセットに曲がセットされていて、お目当ての曲が入っているカセットを機械に入れて選曲するといった感じでした。嫌なものが出回ってきたなぁと思っていたのですが、会社の宴会でも、私は歌うのを頑として拒否し続けていました。人前で歌を歌うなど、音楽の授業でも受け入れなかった位恥ずかしいことに思っていたので、それは到底容認しがたいことでした。そんな或る日、M君という一人の若者が入社してきました。もっとも、私も若者だった頃の話です。M君は私の直属の部下として働くようになったのですが、彼との出会いが、私と歌謡曲との関係を一変させました。
M君は自衛官出身のクラブ歌手という実に風変わりな経歴の持ち主でしたが、その唄声を初めて耳にしたとき、私は驚きと感嘆の思いでしばらく呆然としてしまいました。社内にもそれまでとても歌が上手いと言われていた人は何人かいましたが、M君の唄は、そんなドングリ達の比較とは掛け離れた全く別次元の世界でした。スナックなどで何組ものお客さんが会話で盛り上がっている時でも、M君が唄いだすと、皆振り返ってM君の唄に聞き入るといったことが何回もありました。M君との出会いは、歌が上手いとはどのようなことか…ということを初めて私に解らせてくれた、衝撃的な出来事でした。
「どうしたらそんなに歌が上手くなれるの?」
私はM君に聞きました。おそらく彼にとっては耳にタコができるほど散々訊かれた質問だったと思います。彼は最初の頃適当に答えていましたが、私が余りに執拗に聞くものですから、渋々といった体で(なにせ上司だったものですから(^^; ) 「発声練習からでしょ」と言いました。そして、その単調な練習を最低3ヶ月は続けること。しかもその練習で喉を痛めてとんでもないことになる危険もあると脅しました。しかし、私は小躍りして喜びました。ついに師匠(と勝手に決めていた) が本気になって教えてくれるようになったと……。後年、M君が述懐したところによれば、これは私になんとか諦めさせるように言ったとのことでした。今まで歌を歌ったこともない人に「歌を上手くなるには…」と聞かれて、かなり困ったそうです。しかし、このおバカな弟子は、師匠の意図とは裏腹に、勇躍発声練習を始めました。そのころ車通勤だった私は、同じ区内の僅かな帰路を、わざわざ郊外に出て大回りして帰り、車内で発声練習を続けました。その方法も詳しく教えてもらってなかったのですが、「あ・え・い・お・うって大声で出すんだよ」といった程度の言葉を頼りに練習しました。また、レコード屋さんに寄っては、名前を知ってる歌手のカセットを買って、車の中で掛けて一緒に歌うようになりました。こんなことを3ヶ月どころか半年も続けていた頃、師匠が言いました。
「まさか本当にやるとは思わなかった」
師匠のM君は、半ば呆れ顔、半ば半信半疑といった顔で言いました。しかし、どうにか私の熱意だけは伝わったようで、その後歌謡曲、歌謡界などのことをなんでも話し合う関係になりました。
私の特訓は、残念ながらM君の領域には程遠く、かろうじて人前で歌が歌える程度の進歩に終わりました。しかし、この時期のお陰で、人の歌に関してはとてもよく判るようにようになりました。さんざんカセットを買い漁り、TVは歌謡番組を追い掛け回していたのですから、どの歌手も同じように聞こえていた頃に比べれば、これは格段の進歩には違いありません。もっとも、それは通常の人の感覚を身につけたと言ってしまえば、それだけの話なのですが……。
この頃も大勢の歌手の方がいらして、皆さんその方独自の世界を歌っていました。その中でも、私が大好きだったのが、森昌子さんでした。当時の森昌子さんの歌唱力は、今思えば最も彼女の脂の乗った絶頂期で、私は感嘆して唸るばかりでした。そんな時期に歌謡曲に目覚めたことを、とても幸せに感じています。


森昌子
涙の桟橋





君いとしき人よ





おんなの海峡







 M君のお陰で、私の中には歌謡曲という住人が住み着き、既に住み着いていたJAZZと三人での生活が続きました。すでにM君も退社し、私も相当な小父さんになっていた或る日、TVで「演歌の花道」という番組を見ていた時です。
ちあきなおみさんが出演しました。私は、「随分古い人が出てきたなぁ。この人まだ歌手やってんだ」などと思いながら見ていました。ちあきなおみという歌手に対して、私の知識は「以前確か”喝采”という歌を歌っていた」というものだけでした。最初にちあきさんは石原裕次郎さんの「口笛が聞こえる港町」という歌を歌いました。石原裕次郎さんの歌は、M君に会ってから随分練習していましたので、この歌もよく知っていました。ちあきさんはジャズ風のアレンジで歌い始めました。しびれた、といった雑な表現しか思いつかないのですが、とにかくびっくりしました。一言で言えば「上手い」と言うしかないのですが、そんな上手いとかいう世界を通り越したちあきさんの唄の世界がある気がしました。ちあきさんはその番組の最後にも出てきて「紅とんぼ」という歌を歌いました。その歌を聴きながら、どうしたものか、私の眼から涙が止まらなくなりました。これがちあきなおみという大歌手と初めて出逢ったふた昔ほど前の出来事です。ちあきなおみさんが「喝采」を歌っていた頃、私は「違いのわからない男」でした。歌謡曲と出会ったことは、本当に私の人生をいろどり鮮やかなものにしてくれました。



 ちあきなおみさんの歌は、どれを選ぶかとても悩みます。そのどれもが載せたい誘惑に駆られるからです。



ちあきなおみ
男の友情





かもめの街




秘恋




紅とんぼ






 普段なかなか更新しないくせに、書き出したらなかなか止まらないわがままなブログ。最後までお読みいただき、有難う御座いました。



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